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最高裁判所大法廷 昭和25年(れ)280号 判決 1950年11月22日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人山崎一男同遊田多聞の上告趣意について。

賭博行為は、一面互に自己の財物を自己の好むところに投ずるだけであって、他人の財産権をその意に反して侵害するものではなく、従って、一見各人に任かされた自由行為に属し罪悪と称するに足りないようにも見えるが、しかし、他面勤労その他正当な原因に因るのでなく、単なる偶然の事情に因り財物の獲得を僥倖せんと相争うがごときは、国民をして怠惰浪費の弊風を生ぜしめ、健康で文化的な社会の基礎を成す勤労の美風(憲法第二七条一項参照)を害するばかりでなく、甚だしきは暴行、脅迫、殺傷、強窃盗その他の副次的犯罪を誘発し又は国民経済の機能に重大な障害を与える恐れすらあるのである。これわが国においては一時の娯楽に供する物を賭した場合の外単なる賭博でもこれを犯罪としその他常習賭博、賭場開張等又は富籤に関する行為を罰する所以であって、これ等の行為は畢竟公益に関する犯罪中の風俗を害する罪であり(旧刑法第二篇第六章参照)、新憲法にいわゆる公共の福祉に反するものといわなければならない。ことに賭場開張図利罪は自ら財物を喪失する危険を負担することなく、専ら他人の行う賭博を開催して利を図るものであるから、単純賭博を罰しない外国の立法例においてもこれを禁止するを普通とする。されば、賭博等に関する行為の本質を反倫理性反社会性を有するものでないとする所論は、偏に私益に関する個人的な財産上の法益のみを観察する見解であって採ることができない。

しかるに、所論は、賭場開張図利の行為は新憲法施行後においては国家の中樞機関たる政府乃至都道府県が法律に因り自ら賭場開張図利と本質的に異なることなき「競馬」「競輪」の主催者となり、賭場開張図利罪乃至富籤罪とその行為の本質を同じくする「宝籤」を発売している現状からして、国家自体がこれを公共の福祉に反しない娯楽又は違法性若しくは犯罪性なき自由行為の範囲内に属するものとして公認しているものと観察すべく、従って、刑法一八六条二項の規定は新憲法施行後は憲法一三条、九八条に則り無効となった旨主張する。

しかし、賭博及び富籤に関する行為が風俗を害し、公共の福祉に反するものと認むべきことは前に説明したとおりであるから、所論は全く本末を顛倒した議論といわなければならない。すなわち、政府乃至都道府県が自ら賭場開張図利乃至富籤罪と本質上同一の行為を為すこと自体が適法であるか否か、これを認める立法の当否は問題となり得るが現に犯罪行為と本質上同一である或る種の行為が行われているという事実並びにこれを認めている立法があるということだけから国家自身が一般に賭場開張図利乃至富籤罪を公認したものということはできない。それ故所論は採用できない。

よって、旧刑訴四四六条に従い主文のとおり判決する。

以上は裁判官栗山茂を除く裁判官の一致した意見である。

裁判官栗山茂の意見は次のとりである。

本件上告は次の理由で、不適法のものとして棄却さるべきものである。

裁判所の使命とする法律の解釈というのは、法律の政治的若しくは社会的価値即ち立法の是非の判断ではなく、法律上の争訟の解釈に必要な法的判断を与えることである。このことは違憲法令審査の場合でも同様である。この場合にも当事者から憲法一一条にいう「この憲法が保障する基本的人権」(一二条にいう「この憲法が保障する自由及び権利」である)の中で、どの自由又は権利が当該法律又はその条項によって侵されているという主張即ち法律上の争訟があって初めて裁判所は当該法律と憲法が保障している当該自由又は権利とについてそれぞれ解釈を試み、果して当該法律が憲法の当該保障に適合しているか否かを判断するのである。ここに初めて法律解釈としての法的判断があるのである。

もとより基本的自由及び権利は「この憲法が保障する自由及び権利」(憲法一一条及び一二条)以外に存しうるのは言うをまたない。米国憲法には「本憲法中に特定の権利を列挙した事実を以つて、人民の保持する他の権利を否認又は軽視するものと解してはならない」という修正條項第九条がある。しかし「人民が保持する他の権利」が何であるかは結局裁判所が裁判で定めるか、それとも憲法の条項に追加するかによって定めるの外はないのである。わが国においても少なくとも当裁判所が裁判によって定めない限り「この憲法が保障する自由及び権利」は憲法第三章に列挙されているものである。憲法が定める国会、内閣及び裁判所の各権限も、その権限の行使に対して憲法が保障する自由及び権利も、すべてこの憲法の定めるところによることは、いわゆる成文憲法の原則であって、この原則は日本国憲法も他の国の成文憲法と同様に採用しているのは明らかである。そして憲法一一条一二条及び一三条は「この憲法が保障する自由及び権利」の保障そのものではなく、保障は一四条以下に列挙するものである。

以上の前提の下に、本件上告論旨を見ると、論旨は賭博行為乃至賭場開張図利の行為は公共の福祉に反するものでないと主張するだけであって、上告人が賭場開張図利罪によって処罰されるのは、刑法の当該条項が、この憲法が保障しているどういふ自由又は権利を侵す結果であるという主張と理由とを展開していないのである。もともと法律は国家が国政(公共の福祉もその一部である)に関する政策とて制定するものであるからかような上告論旨は立法の当否、本件では公共の福祉の判断を論議する政治的批判にすぎない。これに対する多数意見の説示は賭博行為乃至賭場開張図利行為に関する刑法規定の立法理由を説明しているのと異るところがないといえる。日本国憲法実施以来本件のように憲法一三条を楯にとった上告論旨をしばしば見るのであるが同条は公共の福祉に適合しなければ違憲な法律であるという保障を与えているものではない。憲法のどこにも左様な保障はないのである。同条は寧ろ公共の福祉のために制定せられた法律ならば、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が制限せられる旨を規定しているのである。ここに公共の福祉というのは、観念論的な公共の福祉を言うのではない。例を挙げれば憲法二五条により国民をして健康で文化的な最低限度の生活を営ましめるに欠くべからざる立法は公共の福祉のためにされるものである。従て社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に関するものの如きは、その模範的なものである。一口に言えば、米法にいわゆる警察権(Police powerの仮訳である。)の作用によって生命、自由及び幸福追求に関する権利、つまり、契約の自由その他行動の自由及び財産権(憲法二二条、二九条二項参照)が制限せられることを是認した条項に外ならない。米国憲法修正条項第五条、第一四条にいういわゆる「法律の適正な手続」という辞句が立法行為に対する実体上の制限の保障にまで拡充解釈されてきた歴史は周知のとおりである。かような拡充解釈の結果、裁判所が法律解釈の末に拘泥して契約の自由その他財産権の行使の自由を過度に保護した結果となって、政府の社会立法の実施が阻止されたため、いわゆるニウ、デイル立法の際に米国最高裁判所改組案までも論議せらるゝに至った実例もまた周知のとおりである。こういう歴史を背景として日本国憲法の立案者は前記米国憲法にいう「法律の適正手続によらなければ、生命、自由若しくは財産を奪われない」という規定を解体して一方にわが憲法三一条に単に「何人も法律の定める手続によらなければその生命若しくは自由を奪われない」として「適正手続」の辞句を改め同時に財産の文字を削除し、財産権については二九条でその不可侵を保障するけれども「財産権の内容は公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」旨を規定したのである。そして、それと同時に一三条の概括的規定を設けたものであろう。立案者の周到な用意がうかがわれるのである。

そもそも国会が立法するにしても、常に最上の政策として立法するとは限らないことは言うまでもない。次善の策(最上は一つであるが次善となれば一つとは限らぬものである。)ではあるが、国の財政状態とか国家の実状とかの政治的考慮の下に政策として決定して法律によって実行に移すのである。又次善の策にしても甲の政党はAの政策を次善とし、乙の政党はBの政策を次善とするけれども投票(政策の価値判断の表示である。)によってAの政策が採択されるのである。裁判所はかような政策の価値判断に代るべき判断をどうしてできるであろうか。憲法は最上級の政策でなければ適憲でないとは保障していないのである。極論すれば公共の福祉に反する法律が制定された場合に、どうして阻止するかという説があるかもしれない。それは主権者である国民が国会又は内閣を打倒するより外にないことであって、裁判所が法令審査権を以てしても主権者と並んで立つものではないはずである。こう考えて見ると、憲法一三条は立法権の作用と司法権の作用とを調整することを目標とした法令審査権の限界に関する原則を定めたものと言ってよいであろう。要するに、本件論旨のように公共の福祉に反するものでないという主張は国会へ申出ずべき筋合のもので、裁判所へ訴え出ずべき筋合のものではないのであるから、上告不適法の論旨たるを免れないと言うのである。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 真野毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 河村又介 裁判官 穂積重遠)

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